ウコギ 〈121号 #59〉

ウコギ

 この季節、春の山菜の一つとして食するウコギ。ウコギと称される植物は数多く、里山などでもよく見られるヤマウコギもありますし、よく知られる山菜のタラの芽やコシアブラなどもウコギ科のなかまです。
 ここで紹介するのはヒメウコギという中国を原産とする種類で、薬用として伝えられ、平安時代の書物にも残っているものです。江戸時代には食用としても食べられるようになります。

 昔は広い地域で食べられていたようですが、現在では、東北の一部など限られた地域でしか食べないようです。わたしの住むここ山形の内陸では、古くから今に至るまで、長く食べられてきた代表的な山菜の一つです。
 子どものころから、毎年春になると屋敷の端に植えてあるウコギが、他に先駆けて芽吹き、それを摘んできては食べるのを楽しみにしていました。
 鋭いトゲのついた細身の枝に、たくさんの若芽が生じます。そのトゲに用心しながら摘むのもなぜか楽しかったものです。このウコギに限らず、フキノトウやタラの芽やワラビやほかの山菜を摘むのも、なにかしら特別なウキウキする楽しさが感じられます。やはり、植物の芽生えと春が来たことの喜びを共有できていることで、生き物としての実感がそうさせるのでしょうか。

 その味は、タラの芽やコシアブラと似てはいますが、さらに強めの風味を感じます。さっと茹でて冷水に取り、和え物、ご飯、お浸しなどにして食べます。茹でた後のきれいな深い緑と独特の食感も特徴で、天ぷらでも食べますが、茹でてからの料理がおいしいと思います。

 その強い風味と食感を楽しむなら、醤油と削り節でシンプルに「ウコギのお浸し」に限ります。
 細かに刻んで塩で味をつけ、炊きたてのご飯に混ぜこんで、「ウコギご飯」。
 でも、春になったらこれは欠かせないというのは、「ウコギの切り和え」です。さっと茹でて冷水に取ったウコギをよく絞り、焼いた味噌(水分を飛ばした味噌)といっしょにまな板の上で包丁で叩きます。緑のふりかけ状にして、熱い炊きたてのご飯の上にのせいただきます。
 包丁で叩くので「切り和え」というのでしょう、ニンジンの柔らかい若い葉も同様に切り和えがおいしいです。ふりかけとしてさらに材料を加えれば、あれこれアレンジもできますね。
 ウコギを手に入れるのがむずかしいかもしれません、ニンジンの葉でぜひ作ってみてください。ニンジンの葉もなかなか手に入らないかな。

 今回は「ウコギの切り和え」にしました。
 じつは、このごろ味噌パウダーが和え物などに重宝していて、これも焼き味噌ではなく刻んだウコギにあとからパウダーを混ぜる方法をとりました。簡単です。

《ウコギの切り和え》

ウコギ切り和え

 さて、なぜここ山形がこのウコギを食べることが一般的な地域なのかということです。

 山形県の南部に位置する米沢、そこが出羽国米沢藩だったころ、九代目藩主に上杉治憲(はるのり)、出家後の号は鷹山(ようざん)という、日本の名君といわれる人物がいました。以下、よく知られるの名の鷹山で表記します。

 ウコギがいつ持ち込まれたのかというと、鷹山公から遡ること160年以上前、関ヶ原の戦い後の米沢藩初代藩主上杉景勝、その家老職に任じられた武将で「愛」の兜でも知られる直江兼続の時に栽培を始めたといいます。

 米沢・上杉藩の成り立ちからして財政的には苦しさのつづく、いまならデフォルト国家寸前の藩に日向高鍋藩江戸屋敷の<鷹山>少年が養子になります。治憲として米沢の上杉藩主になるのは、16歳(明和4年、1767)。
 多額の借金返済に加え農村の疲弊、さらには飢饉の頻発と救いようのない状況の中、藩政の改革を行います。

 徹底した倹約を推し進め、藩主自ら食事も一汁一菜で飲酒もせず、衣服も質素に贅沢を排した生活を実践します。
 農業の復興を最優先とする産業振興、自ら田畑を耕しその重要性を示していました。ある百姓が稲束の取り入れ中に雨が降りそうになり手がなく困っていたところ、武士が二人通りかかり手伝いをする。そのお礼の刈上げ餅を持っていきたいというと、米沢城の北門が伝えられた。通された先には殿様がいて、帰りには褒美金まで渡されたという。その経緯が書かれたそのおばあちゃんの手紙が米沢の資料館に残されています。テレビドラマの中の黄門さまでもやらないような逸話です。

 さまざまな改革を行っています。手仕事の奨励や特産品の開発。食料の備蓄。閉鎖されていた藩校(いまも高校として残る興譲館)を再開させ、藩士、農民など身分を問わず学問ができるようにする。日本で最も古く公娼制度の廃止の法令を出した。廃止による弊害を懸念し反対する者に対して鷹山は、「欲情が公娼によって鎮められるならば、公娼はいくらあっても足りない」といっています。

 そのような取り組みのひとつとして、ウコギの栽培を推し進めます。ウコギの木を垣根として屋敷の周りに植え、生じた葉は膳のおかずにします。またウコギの枝はトゲがいっぱいですから、防犯上の垣根としては実に有効です。直江兼続がはじめたものを復活させたともいわれますが、鷹山のころには米沢で盛んに植えられ、最上川の上流にあたる米沢から、舟運の流域沿いにも伝わり、中流域のわたしの生家のあたりでも食べるようになっていたのかと思われます。

 35歳で出家剃髪し、治憲から鷹山と号し隠居をしてからも、次代藩主の後見を務め、ほとんどの藩主が隠居すれば江戸屋敷住まいとなるのが通例の中、上杉家は米沢に住み続けたといいますから、鷹山は米沢に尽くし、いまでも米沢の人たちに尊敬され続けている名君であることは確かなようです。
 その後の藩主も代々、鷹山の打ち出した改革を実行し続け、のちにはついに藩の借金が完済されます。


 後世に残る多くの言葉を残した人物で、よく知られるのが、「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」という言葉です。これは人にその論を説いたものというより、崖っぷちで果たしてきた自らの行動を説明したものと読めます。

 政策の根本方針、その思想としては、自助・共助・公助による「三助の思想」「三助の精神」とされるものが現代にも通じる文言かと思われます。まず自力で努力する「自助」、 次に家庭・地域社会や年金に保険などの積み立てで助け合う「共助(互助)」、最後に国・地方自治体などの行政が社会全体による税でカバーする「公助(扶助)」の三つの助け。
 その考え方を培った日本文化とともに崩壊はしていても、システムとしては現在も存在しています。しかし、それを「助け」と表現する考え方がそこでは大きな違いです。儲けるためのシステムとわれわれが助け合って生きるためのシステムは、根本的に違います。


 鷹山が次期藩主治広に家督を譲る際に申し渡した、三条からなる藩主としての心得というものがあります。

「伝国の辞」

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にして君の為に立たる国家人民にはこれ無く候

右三条御遺念有間敷候事

天明五巳年二月七日  治憲
                        (Wikipedia: 上杉鷹山より)

 2026.4  堀 哲郎

 アメリカ大統領にジョン・F・ケネディが就任した時、日本人記者との会見で、「最も尊敬する日本人は、上杉鷹山である」と答えたといいます。ケネディは内村鑑三の「日本を代表する日本人」五人を書いた著書を通して、鷹山のことを知ったそうだ。
 いまのトランプという、借金大国でありながら武力と脅しで他国から金品を漁るアメリカの大統領は、鷹山の名前すら知らないでしょう。狂気と言われながらも、ドルの崩壊を防がんと、また自身の性癖の過去がこれ以上バレないようにと、日々策略に明け暮れています。
 タカイチ?  え、だれですかそれ。石器時代の人?


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